- 小塚 泰彦
伝統芸能のトランスクリエーション
"Noh is the most sleepy art" ?
先日ある能楽堂で、英語による解説付きの演能という珍しい舞台がありました。
そこで、外国人向けに能の説明として、「英語ができない」とおっしゃる能楽師の方が
”Noh is the most sleepy art” と仰いました。
たしかに、「能は眠くなる」とはよく言われます。
せっかく能を観に来たのに、眠ってしまったのでは勿体無い。そう思われる方は多いかもしれません。また、眠くなってしまうくらいだから、自分は能に興味が無いのだろうと結論づけてしまう向きもあるでしょう。
私は自身が観世流で能のお稽古を始めて以来、熱心な能ファンです。そんな「能が大好き」な私でも、観能中に睡魔に襲われ、こっくりこっくり眠ってしまうことは稀なことではありません。こんなに能が大好きなのに眠ってしまうなんて・・・と、しばらくは自分を情けなくすら思ったものでした。
しかし能のことを知れば知るほど、そうではないという確信が湧いてきました。
潜在意識で観る芸能
多くの人が眠ってしまうだなんて、それってすごいことだと思うのです。
能は人を睡眠へ誘う力がある。
私が考えるのは、その力には意図があるのではないか、ということです。
能は眠くなる芸能ではなく、「寝て観る芸能」なのではないか。観客を眠くさせて、朦朧とした無意識状態へ誘い、潜在意識で観させる芸能なのではないか。
眠っていても、謡いや囃子は耳に聞こえるし、鼓の波動は体に響くし、まぶた越しに光の情報は視覚に入ります。
むしろ、睡眠状態で五感の境界をおぼろにさせて、感覚の交わる曖昧なところに
幽玄を感受する感覚がふわっとあらわれるのではないかということを私は考えました。
能は、潜在意識で観る芸能なのです。
解釈をトランスクリエーションする
幽玄の美をあらわす能、とりわけ世阿弥が創り上げた夢幻能は、あの世とこの世を行き来したり、僧の夢想の中の情景が描かれたりもします。
顕在意識で観れないものを描くわけだから、人を眠らせて潜在意識で観させる。
くらいのことを、天才世阿弥は考えた気がします。
「能は眠い」というのは現象です。
その現象にどのような意味があるのか。その意味を読み解き、新しい解釈を見出すことをしさえすれば、同じ現象でもその価値が変わります。
意味を変えれば、それだけで目の前の世界は変わります。価値が無いと思われているもの、価値を見出すのが困難なもの。
それは価値のトランスクリエーションとも呼べるもので、トランスクリエーションがいわゆる外国語の翻訳にとどまらないことの証左であるでしょう。
